【スターリン葬送狂騒曲】怖いけど笑える命がけの後継者レース
スターリンといえば、ロシア革命の立役者として、実質的な独裁者として、政敵だけでなく一般市民まで大量に粛清(処刑)してきた人物です。
そのスターリンが、ある日、脳出血で死亡するのですが、そのスターリン亡き後の権力闘争と歴史や体制が変わる瞬間を、コミカルなタッチも交えながら、リアルかつ冷徹に描いた作品です。
【原題】The Death of Stalin【製作年】2017年【製作国】イギリス、フランス【上映時間】107分
【監督】アーマンド・イアヌッチ【脚本】アーマンド・イアヌッチ、デヴィッド・シュナイダー、イアン・マーティン、ピーター・フェローズ【撮影】ザック・ニコルソン【音楽】クリス・ウィリス
【キャスト】スティーヴ・ブシェミ、サイモン・ラッセル・ビール、パディ・コンシダイン、ルパート・フレンド、ジェイソン・アイザックス、オルガ・キュリレンコ、マイケル・ペイリン、アンドレア・ライズボロー、ジェフリー・タンバー
ロシア革命の主導者でソ連の書記長として巨大な権力を奮ってきたスターリン。その彼が、ある夜、突然倒れてそのまま死亡してしまう。
その死の直前まで一緒に食事をしていた政権幹部たちが、次のトップの座を狙って表面上は静かに抗争を繰り広げていきます。
果たして誰が次の書記長の座を射止めるのか? そして、負けた人間の運命はどうなるのか?
ラジオのクラシック音楽番組で、モーツァルトのピアノ協奏曲を生中継で放送していたんだけれど、その編集室にスターリン本人から電話がかかってくるシーンがあって、そこからの展開が笑える。
笑えるシーンを描きながらも、その原因はスターリンの恐怖政治があったわけで、笑いの影にはつねに恐怖がつきまとっているのです。
スターリンが政敵や民衆を大量処刑する粛清って、本当に恐怖だったんだよなと見ている側も怖くなります。スターリンとその取り巻きの気まぐれとも言える意向次第で、粛清リストに載せられると、即座に秘密警察がやってきて、そのまんまこの世からどこかに連れ去られてしまうわけです。
それで、しかもそれを決める幹部たちが、下品で低俗な言動をしていて、その場で決められてしまう。本当にそのへんのオッサンみたいな幹部たちが、「アイツ気に食わねえ」と思えばリストに載せられてしまうわけです。人間の運命って、本当にいつどうなるかわからないし、ほんの紙一重の差で変わってしまうのだということが描かれていて、恐ろしくなります。
普通に暮らしている市民が連行されて、処刑されるシーンがありますが、本当に機械的に処刑が行われているのも恐怖です。ところが、スターリンが死んだと現場に伝わった瞬間、処刑がストップして、たまたま並び順が前後したおかげで、生死が分かれるシーンがとても印象深かったです。
そして、その恐怖がスターリンの死で、突然彼ら自身に襲いかかってくるというのが、この映画の面白さなわけですね。
それで、この作品はスターリンの死後に繰り広げられた権力闘争で、誰が後継者争いに勝つのかを描いています。史実そのまんまではないんだと思いますが、権力闘争がこの作品ほどではないにせよごく短い間で行われた、電撃的なものだったというところで、スピード感や緊張感があって、成り行きをドキドキしながら見守ることになります。
最後のほうで、スターリンの娘や息子が自分たちの処遇に対する希望を述べようとすると、フルシチョフがぴしゃりと相手の口を封じて、もう自分たちの思い通りにはならない状況になったのだと通告するシーンなどは、歴史というものは非情なものだと思わせます。
権力闘争で負けた側がどんな悲惨な最期を迎えるのか、自分たちがそれをやってきたので、知りすぎるほど知りすぎていて、幹部たちにはみんな、絶対に負けるわけには行かないという断固たる決意があるわけですね。
そして、負け組や切り捨てられた側は容赦なく葬られていくという姿が、しっかりと描かれていて、この映画でも権力闘争に破れた人間が悲惨な最後を遂げるシーンが冷徹に描かれています。
英語版のタイトルは「The Death of Stalin」で、「スターリンの死」とそのまんまなんだけど、日本語タイトルは「スターリン葬送狂騒曲」となっています。これはスターリンが亡くなって、その後、政権幹部たちがあたふたしながら権力闘争になだれ込むようすを狂騒曲と表現したんだろうけれど、いま気がついたんだけど、映画の劇中で演奏されるモーツァルトの協奏曲にもかかっているのかなと。それで、その曲を演奏したピアニストがしたあることが、スターリンの死にも関わっているということで、この日本語タイトルになったのかもしれません。そう考えると、なかなか味わい深いタイトルだと思います。
ちなみに、高校の世界史の教科書では、この前後の出来事について「詳説 世界史B 山川出版社」の383ページには次のように書かれています。
「ソ連では1953年にスターリンが死ぬと、外交政策の見直しが始まり、55年にユーゴスラヴィアと和解し、西ドイツとの国交も回復した。56年2月のソ連共産党第20回大会で、フルシチョフ第一書記はスターリン体制下の個人崇拝、反対派の大量処刑などを批判し(スターリン批判)、自由化の方向を打ち出した。さらに資本主義国との平和共存を提唱し、コミンフォルムも解散した。この転換は「雪どけ」と呼ばれ、東欧の社会主義国に衝撃を与えた。」
また、そのページに掲載された写真のキャプションには、
(写真キャプション)ソ連共産党第20回大会で演説するフルシチョフ フルシチョフは1894年炭鉱労働者の子にうまれ、15歳で鉛管工になり、労働運動に参加した。モスクワの地下鉄建設の功績でスターリンに認められ、共産党幹部となったが、スターリン批判に際しては、自分がスターリン独裁に協力した面にはふれなかった。