【聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア】実は見た目以上にヤバい映画(ネタバレあり)

ジャンル的にはサスペンス・スリラーというような括りになるんでしょうか。
第70回カンヌ国際映画祭では作品賞にノミネートされ、脚本賞を受賞したほか、ニコール・キッドマンが第70回記念名誉賞を獲得しています。

その「聖なる鹿殺し」の感想・レビューです。


【原題】The Killing of a Sacred Deer【製作年】2017年【製作国】イギリス、アイルランド【上映時間】121分
【監督】ヨルゴス・ランティモス【脚本】ヨルゴス・ランティモス、エフティミス・フィリップ【撮影】ティミオス・バカタキス【音楽】
【キャスト】コリン・ファレル、バリー・コーガン、ニコール・キッドマン、ラフィー・キャシディ、サニー・スリッチ、アリシア・シルヴァーストーン

医療事故で死なせた男の息子がもたらす恐怖

心臓外科医である主人公のスティーブンは、マーティンという少年に対して相談に乗ったりプレゼントをしたりして成長を見守っていた。
実はスティーブンは2年前に酒を飲んで手術をし、医療事故で患者を死なせてしまった過去があり、マーティンはその息子なのだった。

そしてある日、スティーブンはマーティンを自宅に招いて自分の家族たちと引き合わせ、家族との付き合いが始まる。ところが、それをきっかけに、マーティンが仕事中のスティーブンを訪ねてアポ無しで押しかけたり、自宅に招いて母親と親密な関係になるように仕向けるなど、行動がエスカレートしていった。

やがてスティーブンがマーティンを避けるようになると、突然、息子のボブに異変が起きる。そして、マーティンはある宣告をしてスティーブンとその家族たちを恐怖の中に突き落とすのだった。

マーティンという少年がメッチャ不気味な映画です。一見ただの少年なのになにか超自然的な能力をもっていて、彼が現れたおかげでスティーブンの家族を不幸が襲いかかる、その訳のわからなさがこの映画の不思議なところです。

変わっているのはマーティンだけじゃなく、スティーブンの家族たちも同様で、細かいところで、いろんな不思議なセリフや場面が展開して、ちょっと戸惑います。マーティンがスティーブンの家に遊びに行った時、突然、息子のボブがマーティンに「脇毛を見せろ」と言って、脇毛を見せると「パパのほうが3倍毛深い」という反応をする。また、姉のキムが「私はこの前、初潮があったの」と初対面の若者に告げる。普通なら初めての相手とそういう話題で話さないだろうという場面が出てきて、やりとりがとても不思議で「何なんだこの映画は」と思ってしまう。カンヌ映画祭の脚本賞を獲得した作品ですが、かなりシュールです。

そもそもマーティンは、最初は普通の少年っぽい感じで登場します。スティーブンの家に遊びに来たマーティンについて、妻アナは「いい子ね」と好評価を下します。ただ、観客からすれば「どこが?」という感じで、マーティンはちょっと不気味な雰囲気を漂わせる少年なんです。そして、マーティンがだんだんストーカー的に豹変して、恐怖そのものに変わっていくんです。

作品の最初のほうでは、マーティンは「自分の父親の心臓病を治療してくれていた先生」としてスティーブンと接していたわけです。そこで疑問に思うのは、マーティンは父親の死因が本当はスティーブンが酒を飲んで手術したからだと、その事実を知って近づいたのだろうか。その辺りは描かれていません。そうだとすれば最初はさり気なく相手に近づいて家族構成や内情を知った上で、復讐をしようとしていたのだろうか? それとも途中でその事実を知って、自分の親を殺した男という扱いに変えたんだろうか? 見ている間にいろいろな疑問が湧いてきます。

そして、突然、自分の親が手術で殺されたのだから、スティーブンの家族も誰かが殺されなければならなくて、もしスティーブンが家族の誰かを殺さなければ、スティーブン以外の家族全員の足が麻痺して食欲がなくなり、目から血が出て死ぬと予告します。とんでもない予告なんですが、その予告通りのことが家族たちに起こり始めるわけなんです

なぜマーティンはそんな能力をもっているのかが大きな疑問です。そもそも、マーティンは心臓手術で亡くなった男性の子供で、その男性がごく普通の人間であれば、マーティンもごく普通の少年のはずじゃないかと思うんだけれど、それがどうして呪術者のように人を呪い殺すような能力を持っているのか、いったいマーティンは何者なのか、まずそこが最大の謎です。

よく欧米のホラー映画でありがちなのが、主人公が実は悪魔やその子供だったり、あるいは邪悪なものが乗り移っていたりするのが多かったりします。そのベースには、キリストと悪魔の対立みたいな構図があったりするわけです。ところが、この映画はそういうのとは違うみたいなんですよね。

キリスト教の神じゃなく、ギリシャ神話の神

監督はこの作品を構想するにあたって、父親をなくした少年が何を考えるか?というところからアイデアがスタートしたと言っています。

どういうことかと思って、ちょっと考えてみました。

親が事故で亡くなった理由が単なる事故ではなくて、医者が酒を飲んでいたというような理由だったとしたら、アメリカのような訴訟社会だったら莫大な賠償金を求めて訴訟を起こして、支払いが確定する案件だと思います。

ところが、その少年がお金のことは度外視するような人物だったとして、その事故を金銭で解決しようとしたり、あるいは医師が投獄されたとして、その息子は満足できるのか?ましてや、普段どおりに生活をしている医者から時計をもらったくらいで納得できるかといったら、できるはずがない。やっぱり目には目をで、金はいらないから家族を一人殺せ、といいそうな気がする。ていうか、言うでしょう。

そして、この映画がユニークなのは、もしも、医療事故で父親をなくした少年に神のような能力が宿ったらどうなるか、という設定にしたことでしょう。

それじゃあ、マーティンに宿った神ってどんな神なのかというと、監督がギリシア系だからだと思うんですが、キリスト教の神・ゴッドではなくてギリシア神話の神です。なんでキリスト教じゃなくてギリシア神話なのかというと、この映画がギリシア神話の「アウリスのイピゲネイア」という話をベースに作られた映画だということらしいです。

日本人は欧米の神というと、やっぱりキリスト教の神をイメージしちゃいますが、ギリシア神話の神はゴッドとは違うみたいです。

「アウリスのイピゲネイア」に登場するのは女神・アルテミスですが、特定の神というよりは、ギリシアの神っぽい能力やマインドをもった神っていうことなのかな。撮影したのがアメリカのシンシナティなので、映画の舞台はアメリカのキリスト教圏なのだと思いますが、そこに現れたギリシア神話の神です。キリスト教の神ではない異教の神ですね。それを際立たせるためにマーティンの言動にも異様な雰囲気を出させているのでしょう。

作品の中でこの神は、明らかにキリスト教の神じゃないというのを暗示しているのが、キムの足が麻痺するシーンです。キムはクリスマスの合唱の練習をしていて、ちょうど十字架の下にいて倒れてしまうのです。キリスト教の「ゴッド」は助けれくれなかったのです。

ギリシア神話の神って、殺し合ったり報復したり不倫したりしていて、神っぽくない、むしろ人間に近いみたいだけど、能力だけはやっぱり神なので、めんどくさい。始末に負えない感じですね。

物事の考え方もキリスト教とは違うのかもしれません。殺しという「悪」を犯したのだから「罰」を受けるというのとは少し違う。もし殺しが「悪」だったら、スティーブンに家族の一人を殺させるのも「悪」です。神が人間に悪を指示するのはおかしいんじゃないかという話になってしまう。

この神は上から目線で「罰」を与えるのではなくて、お前が俺の身内を「殺す」という不始末を仕出かしたのだから、ちょうど同じ分だけきっちり「落とし前」をつけてもらおう、という考え方みたいですね。それが「ジャスティス=公正」ということ。

マーティンはスティーブンの都合を考えず仕事場に現れたりしますが、これは「俺は神だから、お前の都合なんか関係ないね」ってことですね。そして、無理やりスティーブンに脇毛を見せろなどと恥ずかしいことを強要したりします。さらに、スティーブンに心構えができていようがいまいが、「お前が家族のうちの誰かを殺さないと、全員死んじゃうぞ」と宣告するわけです。そのことを告げるシーンでは、普通の少年が急に呪いのようなことを、事務的かつ早口に相手に告げるというのはとても斬新な気がしました。

極限状況の中で崩壊していく家族関係

命が危なくなって、家族同士の間で表立って見えていなかった関係も露骨に現れてくる。

アナが「子供はまた産めばいいのだから、今回は死ぬのは子供のどちらか」と、「それを言っちゃお終いよ」みたいなことを言い出して、スティーブンに夫婦間の行為を迫ってくるのは、もうサイテーな感じですね。

さらにボブは「本当はパパみたいに心臓外科医になりたかった」とおべっかをつかったり、キムがマーティンに「自分を助けてほしい」と頼んだり、なかなかエグい展開が待っています。子供二人はお互いに妬み合っている。みんな自分さえ良ければ、という言動をとっている。家族同士の信頼関係や愛情はそもそもなかったのかもしれない。

そんな関係にある家族が、最後に極限の体験をして家族で有り続けることができるのか?

でも利己的なのは、当たり前といえば当たり前。みんな自分が大事だ。
家族愛を描けば安心するかもしれないが、ここではそっち方向にはいかない。

家族関係では当初スティーブンはキムを、アナはボブをかわいがっている。男親は娘を、母親は息子をというのは洋の東西を問わず変わらないみたいですね。

そして、さらにボブの足が動かなくなると、スティーブンは無理やり立たせようとして床に倒れさせたり、食欲が無いというボブの口にパンを押し込もうとしたり、ほとんど虐待のような仕打ちをするようになります。ボブが可哀想、というよりもこの子役が痛かったり苦しかったりして可愛そうな感じで、監督が生意気そうなイケメンの子どもが嫌いで、不公平なほどの嫌悪感を抱いているのかもと思うほど邪険に扱う。

そして、最後にはボブが殺されるわけです。

なんでボブが死ぬ運命だったのかというと、ボブはマーティンに対してはほとんど屈従していなくて、それに対する神の怒りとしてボブが標的になったのだとも取れるます。何しろ人間的な発想の神なので。あるいは、ギリシア悲劇などのテーマとして、息子っていうのは男親を殺す存在になるというので、スティーブンが先回りしてその生命を断ったのだというふうにもとれます。

どっちにせよ、ボブが死ぬというのは最初から既定路線だったのです。スティーブンが猟銃をもってグルグル回らなくても、最初からボブが殺されるのは決まっていたんです。神が決めていた。それがわかるのが、ボブの足が動かなくなる最初のシーンです。ボブはベッドに腰をかけて「足が動かない、感覚がない」と父にいうのですが、そのベッドの上には鹿の絵がかかっています。映画のタイトルは「聖なる鹿殺し」ですね。「聖なる鹿」は簡単にいえば生贄なんですけれど、それが最初からボブに決まっていたのです。

ギリシャのエウリピデスという人が書いたギリシャ悲劇「アウリスのイピゲネイア」が、この映画のストーリーのベースにあるみたいです。その中に聖なる鹿を殺す場面があるらしいです。

僕がこの映画で一番エグいシーンだと思ったのは、家族を誰か一人殺すことを迫られたスティーブンが、子供たちの学校に押しかけて二人のうちどっちが優秀かを教師に訪ねる場面です。自分で決めたくないので先生に決めさせようとするわけですね。でも決められず、3人に袋をかぶせて座らせて、自分がその真中で目隠しをして猟銃を構えてぐるぐる回って撃つという、ロシアンルーレット的な行動に出て、結局ボブを撃ってしまう。

自分の意志では決められないのはわかるが、一番の理由は自分で責任を取りたくないという思いもあったからだろうと思います。さらに言えば、内心では最初から殺すならボブだと決めているのだけれど、その事実を自分自身で知りたくない、あくまで自分は正しくて子供たちに公平に接するえこひいきしない人物だと思いこんでいたい。キリスト教的に正しい「コレクト」な人物だと思いたいわけです。だから、偶然に身を任せるふりをする。

ところが、スティーブンはロシアンルーレットみたいに目隠しをして撃ったはずなのに、弾は正確にボブの心臓を撃ち抜いています。マーティンの父親も心臓手術で死んだのでしたよね。家族にさんざん苦しい思いをさせて、最後に落とし前をつけさせる。これが「ジャスティス」ということなのでしょうか。公平って怖いですね。

偶然撃ったはずなのに、他の二人じゃなくてボブが死ぬ。これは偶然ではない。スティーブンの意志であるような、ないような感じだけれど、その前から神がボブを殺すことを決めていた。神が決めたシナリオ、運命だったわけです。偶然なんてものはなくて、運命がある。非合法の賭博場でスロットをやったら、実は裏で操作されていたみたいな感じなのかな。じゃあ、人間の意志というのは意味がないのか? という究極の問いかけでもあります。

テーマはきっちりと落とし前をつけること

要はスティーブンは父親を殺した責任をとっていないから、きっちりと落とし前をつけさせる映画ということですね。

自分がつい仕事を甘く見て、酒を飲んで手術をした結果、自分が引き起こしてしまった不始末について、スティーブンがまともに向き合ってこなかった。一応酒は控えているみたいだが、自分の不始末そのものに対して落とし前をつけていない。その落とし前をつけさせるために、因果がマーティンという形になって目の前に現れたということなのでしょう。金を借りたら借金取りがどこまでも追っかけてくるみたいな感じですね。

自分の不始末のせいで家族の誰かが死ぬ、あるいは全員が死ぬという状況は、とても不条理です。でも、それは父を殺されたマーティンにとっても同じく不条理な話だったのです。

時計や禁酒でごまかせると思っているのか、先生はバカなの? 痛みを味わえ、自分がやったことに対して責任をとれという意味を込めて、マーティンは自分の腕の肉を噛みちぎるという暴挙に出る。スティーブンも自分の家族を殺して痛みを味わえという意味なのでしょう。

スティーブンは自分の不始末から何とか逃げ切りたい、逃げ切れると思っていたけれど、結局は自分が犯した不始末が追っかけてきて逃げ切れなかったという話だと思います。

実はあぶない作品だった

「(映画のテーマは)大まかに話すと‘正義’と‘報復’、‘信念’、‘選択’などでしょうか。人生で大きなジレンマに直面すると、何が正しくて何が間違っているのか判断できなくなることですね」


ランティモス監督はインタビューでこのように語っています。

ちょっと不思議なのは、正義と報復がセットになっていることです。日本語だと正義の反対語は「不義」や「悪」だと思います。ここで正義と訳していますが、原語では本人は「justice」といっている。これを日本語へ訳す時に「正義」と訳してしまうと「正しいこと・善」という意味になってしまいますが、ジャスティスはどちらかといえば「公正」であること、善悪がどうこうというよりも、それに関係なくやられたらやりかえすという意味のようです。だから監督のコメントは「justice」と報復とがセットになっています。きっちり落とし前をつけてもらうということですね。ただし「倍返し」までいくと、公正じゃないのでジャスティスではない。目をやられたら目だけ、歯をやられたら歯だけ仕返しをするということですね。

「正義に近づいているのは確かだ」とマーティンは言いますが、やっていることが正しいという意味じゃなく、もうすぐ報復が終わるという意味でしょう。

スティーブンは禁酒をして落とし前をつけたつもりでいるけれど、本当は自分のやったことを直視せず逃げ回っているだけ。そして、自分の目の前に殺した男の息子が現れれば、友人の紹介で安く買った時計を少年に渡してごまかしている。それで解決したと思っている。

もともとランティモス監督はアイルランドに住むギリシア系ということだと、やっぱり宗教については敏感になるんだと思います。そして、宗教や民族の問題が渦巻く中で暮らして、いろんなジレンマに向き合ってきたのだろうと思います。

あるいはキリスト教国の人々はこれまで歴史の中で、異教の国々を植民地にしたり現在では資本主義で搾取したりしてきました。そして、何か文句を言われたら安く買った時計を渡すのと同じような真似をしてごまかしているが、本当にそれは公平なのかと。落とし前をつけるべき時がやってくるんじゃないかと。そういうふうにも受け取れると言ったら言い過ぎでしょうか。言い過ぎですね。ちょっとカッコいいことを言ってみたいと思ってしまいました。

いずれにせよ、作品のベースにギリシア神話があるみたいです。最初はそれがわかったからといって、とくにこの作品への理解が深まるという感じではない、と思っていたんですが、実は全然そうじゃなくて、本質的な部分で大いに関係があったように思います。

「ストレンジャー」というか「エイリアン」というか、異邦人的な視線で、欧米の社会や文化の在り方に疑問を投げかけた危ない映画でした。

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