【透明人間(1933年版)】科学者が姿の見えなくなる薬を使って世界征服を目指す

H・G・ウェルズの小説「透明人間」を映画化したのがこの作品。公開当時はきっと画期的で、大ヒットしたんじゃないかと思います。

今は透明人間ってふつうに理解できるけれど、この当時は「透明人間」っていうコンセプトというか、「目に見えない人間」っていう存在そのものが、どれくらい世の中に浸透していたのかわからないけれど、それがまず画期的だったんだと思います。

えー、目に見えない人間って何? どういうこと? みたいな疑問がまず湧いてきて、さらに、透明人間がどんなものか理解できると今度は、みんなアレコレ良からぬ妄想をして、ニヤニヤ楽しんでいたんじゃないでしょうか。

その上で、透明人間の映画を作るって、そもそも見えないものをどうやって撮影するんだっていう話になり、みんなでアイデアを出し合って出来たのがこの映画なんだろうと思います。きっと、作る方も見る方も、みんなワクワクしたんじゃないかな。

1933年に公開されたこの作品は、透明人間が世界制服を目指す壮大なテーマを扱っています。1933年当時はちょうど第二次世界大戦に突っ込んでいく時期で、その頃って世界分割とか世界征服みたいなことが、リアルに感じられる時代だったのかなと思います。

【製作年】1933年【製作国】アメリカ【上映時間】70分
【監督】ジェイムズ・ホエール【脚本】R・C・シェリフ、フィリップ・ワイリー【撮影】アーサー・エディソン【音楽】ハインツ・ロームヘルド
【キャスト】クロード・レインズ、グロリア・スチュアート、ウィリアム・ハリガン、ヘンリー・トラヴァース

ある研究所で食品保存のための地味な研究をしていた科学者・グリフィン博士が、透明人間になる薬の考案し、最初は研究目的だったのが、ある時、これを使えば世界征服も可能という考えに取り憑かれます。

そして、自分の身体を透明にする薬だけじゃなく、いざというときに、元のように目に見える身体に戻すための薬を、極秘裏に作るために、研究所から姿をくらまして、田舎町の宿屋に泊まって薬品の開発を始めるのです。

しかし、宿泊料を支払わないので追い出されそうになり、そこで自分は透明人間だと正体を明かして騒ぎを起します。警察も呼ばれて大騒動となり、グリフィンは行方をくらまします。その町では透明人間が現れたと大騒ぎになります。

透明人間になったグリフィン博士は同僚のケンプ博士の家にあらわれて、自分の世界征服計画に協力することを強要し、さまざまな事件をおこし始めるのです。

透明人間を表現するアイデアが満載

1933年というと昭和8年で、第二次世界大戦の前夜だし、日本では太平洋戦争よりも前ですね。その当時としては、きっと特撮として画期的な映像で、作る方も意欲満々だったろうし、初めて見た人たちはかなり驚いたんじゃないのでしょうか。

まったく映像製作の門外漢としては、この1933年の映画でさえ、どうすれば撮影できるのか思いつきません。これって当時どうやって撮影したんだろうという興味が湧いてきます。ちょうどユーチューバーが作った特撮っぽい動画が流行りだした時、どうやって撮影・編集されたんだろう、みたいな種明かしがテレビでやっていましたけど、当時の観客もおんなじような気分だったのかも。

さらに、透明人間を捕まえるために、警察や町の人たちがいろいろ考える手段も、「確かに初めて透明人間に出会って、それを捕まえようとしたら、自分もこうするかもな」という新鮮な驚きが、観る人たちにあったんじゃないかなと思います。当時の観客は「なるほど、そうやって捕まえるのか」とか、「自分ならこうする」とか、いろいろ考えながら見てたんじゃないか。そういう点を想像すると面白さが倍増しました。

逆に2020年に公開された「透明人間」という作品だと、透明人間のシーンは「どうせCGを使ってるんでしょ」というのがまず大前提としてあるので、そこのところの驚きというのがあんまりないんですよね。透明人間が登場して何か悪事を働いても、「だからどうした?」みたいな反応になってしまうし、そもそも「スゴい、どうやって撮ったんだろう?」とか、そういう驚きがあんまりないので、「今さら透明人間?」と思ってしまいそうです。

そういう意味では、2020年に透明人間をテーマに映画を製作するというのは、不思議な映像が作れて当然ということがあるので、ハードルが高いですよね。

CG技術を使ってどんな思いも寄らない演出を実現するかという点に、見ている人は興味を惹かれるので、作る側にとってはアイデアの面白さが試されることになって、昔よりも今の方がとても挑戦的でハードルが高いのかもしれないです。最初からハンデを背負ってますね。

もし透明人間になったら何がしたいか?

もう一つは透明人間になった動機や、あるいは他人から自分が見えなくなったら何をしようかという思いの部分も、昔と今とでは違っているのが面白いです。

1933年版では、透明人間になる薬を発明した結果、金は盗み放題、人も殺し放題で、俺は世界征服だってできるんだぜ! みたいな誇大妄想狂的な発想になっちゃうわけです。

その自分の考えを恋人に伝えるシーンで、話しているうちに気分が高揚して、まるでヒトラーの演説のようになっていきます。ちょっと調べてみたらヒトラーの演説って、1925年には完成の域に達していたっていうことらしい。そして、ちょうど1933年に首相に就任しているので、このシーンではヒトラーの演説を意識していたとしても不思議ではないですよね。チャップリンの「独裁者」というヒトラーを風刺した映画は1940年なので、それよりも早く敏感に世の中に反応していた映画だったということですね。

「ヒトラーってヤバい」「ガチで世界征服考えてそう」みたいな空気が世界中にあったんでしょうか? 当時は「世界征服」というのがとてもキャッチーなワードだったのだろうと思います。

その後、日本でもいろんなアニメや特撮ヒーローもののドラマなどに登場する悪人が、世界征服を目指したり、人々を思いのままに支配しようと目論んできました。でも、それから「透明人間」が登場してから80年近く経った今、世界征服ということの魅力が大きく下落しているように思うんですよね。

世界征服をしたいか?と聞かれると、その世界征服した状態をキープし続けて、そのために必要な手間を考えたら、たいていの人は仮に世界征服する能力があったとしても「メンドくさいから別にいいや」としか言いようがないんじゃないでしょうか。しかも、自分の姿が見えないからといって、それだけで世界征服することが難しいのは目に見えていて、レーダーに引っかからないステルス戦闘機1機だけで戦争を始めるのと同じくらい無謀な話ですよね。

ということで、2020年に公開された新しい「透明人間」では、透明人間になった男の野望のスケールが圧倒的に縮小し、世界征服からストーカーにまで変わってしまったのでした。

古臭く見えるというよりは、時代というものは確実に変わってしまうんだというのが、2本の映画を比べてみてわかり、とてもおもしろかったです。

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