I’m No Longer Here そして俺は、ここにいない。|ダンスがヤバくてそして切ない(あらすじ・ネタバレあり)

クンビアのダンスがカッコいいです。

主人公はメキシコのモンテレイという街で、ギャングチームのリーダー格だった少年。音楽やダンスが自分の一部になってしまっている、まさにダンスが命という17歳が、あるトラブルで逃亡を余儀なくされて、ニューヨークで働き始める。

それが、「I’m No Longer Here」(アイム・ノー・ロンガー・ヒア:邦題「そして俺は、ここにいない。」)という2019年のメキシコ映画です。

もともとは短編小説だったものが映画化された作品で、いくつかの映画祭で上映されて高い評価を得ています。

【原題】Ya no estoy aqui【公開年】2019年【製作国】メキシコ、アメリカ【上映時間】112分
【監督】フェルナンド・フリアス・デ・ラ・パーラ【脚本】フェルナンド・フリアス・デ・ラ・パーラ【撮影】ダミアン・ガルシア
【出演】フアン・ダニエル・ガルシア、アンジェリーナ・チェン、ジョナタン・エスピノサ、コラル・プエンテ

あらすじ(ネタバレあり)

「メキシコのモンテレイという街に反体制文化運動であるコロンビアカルチャーが生まれた。コロンビア発祥の音楽クンビアを好む」といった内容のテロップが流れる。

メキシコのモンテレイという街のスラム街に、テルコスというギャングチームがあって、主人公のウリセスはそのリーダー。ギャングといっても、テルコスはこの映画で観る限りでは、どちらかといえば近所の不良や学校からはみ出してしまった少年少女が集まって、クンビアのダンスを踊ったり、たまにカツアゲをするくらいの、おとなしめのチームに描かれています。

それでも、他のもっと本格的なワルの集まりとモメることもあったりします。

それで、ウリセスはフラフラ過ごしながら、普段はダンスに明け暮れている。クンビアをバックに踊るダンスでは地元のスター的存在で、おかげで女の子たちにモテていたりするわけです。

ところがある日、ウリセスが偶然に遭遇したのは、知り合いのギャングたちが、バイクでやってきた対立するチームに銃撃されて殺される場面。襲われた側の一人が一命をとりとめますが、この襲撃はウリセスたちが仕掛けたものだと誤解し、ウリセスとその家族を皆殺しにすると警告するのです。

ウリセス一家は引っ越しを余儀なくされ、ウリセスは一人家族を離れて、アメリカに不法入国しニューヨークにたどり着きます。

ウリセスはまだ17歳という若さで、仕事についた経験もなく、英語もほとんど話せません。そんな少年が一人で知り合いも身寄りもいないニューヨークで、中南米からやってきた若い労働者たちの仲間に加えてもらい、働き始めるのです。

中国系のビル経営者から、屋上の不用品やゴミを片付ける仕事をもらうのです。ウリセスはその後、屋上に不法侵入して寝泊まりしようとしますが、中国人経営者の孫娘であるリンに見つかってしまいます。リンはウリセスに興味を持ち、仲良くなって屋上に匿うのですが…。

それで、ウリセスはストリートでダンスをして稼ごうとするのだけれど、それもうまく行かない。そして結局、リンからも見放されたウリセスは、結局、ニューヨークでの生活を受け入れることができず、他に行き場がなくなってモンテレイに帰るのです。

でも、戻ってみればやっぱり以前とは状況が違ってしまっていた。しかも、政府の無策で治安の悪化や国民の生活不安は増大する一方。これからどうするのかというところで終わります。

ニューヨークで自分らしさを見失うウリセス

テルコスのアジトになっているのが、廃墟になったビルの屋上のような場所です。そこで踊ったり、話をしたり、悲惨な現実から離れて仲間たちとの時間を過ごすシーンが、人生の貴重な瞬間です。とてもこころに刺さります。それと同時に、人生の輝く時期はとても儚いという予感に満ちています。

けっこう悲痛な映画です。

ニューヨークにおいて、ウリセスはまったくのゼロになってしまいます。地元ではギャングのリーダーだった自分だけれどニューヨークでは違う。孤独であるだけじゃなく自分は一体何者なのか、という空虚な状態に陥るわけですね。故郷にいれば周りに身内はいるし、クンビアのダンサーとしても知られた存在で、ダンスを踊ることで自分の存在意義を確認できるわけです。

ところがニューヨークではそうはいきません。

中南米からニューヨークにやってきた若い労働者たちに混じって、仕事や寝泊まりを共にするようになるんですが、他の人たちがアメリカになじんでヒップホップなどをどんどん受け入れていくのに、ウリセスはそれができない。

テルコスの「テルコ」は頑固者という意味なのだそうですが、まさに音楽やダンスの面で、ニューヨークに来てヒップホップなどの異文化を受け入れることができなかった。クンビアが好きでたまらない17歳にとって、その年齢を考えればそれも無理はないのかも。まさに頑固者です。アイデンティティにこだわるあまり、ニューヨークに適応、馴染むことができなかったのです。

ストリートでクンビアを踊ってお金を稼ごうとしても、許可がないからと警官に止めさせられたりします。八方塞がりの状態に陥る。

クラブで知り合いになったコロンビア人の中年女性からは、「この国で大勢がつらい思いをしている。ホワイトハウスに呼ばれると思った?」と言われてしまいます。

ニューヨークでの辛い生活と交錯するように、モンテレイでの日々の記憶が蘇ります。思い出すのはダンスのシーンで、それがウリセスのアイデンティティなのだというのがひしひしと伝わってきます。自分のせいではないのに、自分らしさを失わなければならなかった少年の、辛さとかしんどさが伝わってくる。

中国系の少女・リンとも一時的に心が通じ合うのだけれど、リンがウリセスに興味を持ったのは、結局は一時的な興味で終わってしまうわけです。

結局、ニューヨークで誰とも信頼関係を結ぶことができず、自分が全くのゼロになってしまう感覚を味わわされて、それがダメージになった。結局、ニューヨークに来てみたものの、そこで生きていくことはできないと、髪を切ってモンテレイに帰る。

髪を切るシーンが、それまでの自分と決別するかのようなシーン。でもその先が見えないのがつらい。

地元に帰ったら、仲間の葬式が行われていたり、弟分だった男がチームのリーダーに入れ替わってラップの練習をしていたりする。すでに自分の居場所はなくなってしまっていたのです。

最後はアジトの廃墟の上でクンビアを踊る静かなシーン。若くして目はあきらめに満ちた感じになってしまったウリセス。20歳を前にして、人生が終わっちゃったみたいな挫折感を漂わせながら、物語は終わります。その終わり方が切ないです。これから先、ウリセスはどうやって生きていくのか。


原題は「Ya no estoy aqui」で英語タイトルの「I’m No Longer Here」がそのまま訳した感じです。邦題だと「そして俺は、ここにいない。」。ニューヨークだけではなく、故郷モンテレイにも居場所がない。人生そのものの中にも居場所がなくなってしまった。そんな悲しい余韻に満ちた作品です。

メキシコの社会や政府の無策に対する怒り

ウリセスは「テルコス」というチームに属していたわけですが、テルコは「態度を改めることを拒む頑固者」という意味だそうです。ニューヨークで生き延びようとしたけれども、結局は音楽も踊りもクンビアにこだわったことが、挫折につながってしまった。17歳の若さでテルコスとしての生き方を貫いたんだけれど、それが自分自身の人生にとっては、結局どうだったんだろう、という問いかけで終わっている。

ちなみに、ウリセスという名前はホメロスの叙事詩「オデュッセイア」の主人公ユリシーズを、スペイン語で読むとウリセスになるみたいです。ユリシーズは放浪の旅をするんですが、この映画もそれになぞらえて、主人公が故郷の街を離れてニューヨークを彷徨うことになるので、ウリセスという名前にしたのかも。ちなみにウリセスという名前には、スペイン語としては「怒る」とか「嫌う」という意味もあるんだそうです。

この作品の冒頭の字幕では、「メキシコのモンテレイで反体制文化運動コロンビアカルチャーが生まれた」とあります。「反体制文化運動」というのはいわゆるサブカルという意味なのか、政治的な行動なのか、その重みがわかりません。

とりあえず作品を見る限りでは、音楽とダンスが流行ったという感じです。ただ、途中で政府が無策だから物資が不足したりというシーンが出てきます。さらにはギャングがはびこったり政情が不安定になったりして、作品の最後のほうでは暴動みたいなものが起きる。ウリセスはそういう社会の落し子という側面もあります。その意味で、政治面に対する「怒り」が、この作品には含まれているのかもしれません。

モンテレイのクンビアはスローでディープなのが特徴

クンビア自体はズンバというエアロビクスみたいなエクササイズにも使われる、アップテンポの曲が多いジャンルみたいですが、そこからクンビア・レバハダが生まれたというのは、ちょうど、ジャマイカでスカからレゲエが生まれたのと同じような関係なのでしょうか? テンポをスローにしたことで、曲の深みが増すというのが一種の発明みたいで面白いです。


それで、モンテレイではこのクンビア・レバハダでダンスを踊るのが流行していたんだそうです。ダンス自体はヒップホップをベースにした最近のダンスとは違って、腰を低くして独特のステップを踏むユニークなスタイルです。

https://youtu.be/HhJpbRed_2s

主人公のウリセスは4歳の頃にはクンビアを踊って取材をされているシーンが出てきますが、このクンビアのダンスのスター的な存在という設定です。

ところで、エンドロールの後、メイキング的にテルコスバンザイ的な形でメンバー紹介がされるんですが、その場面にはバックにラップが流れてます。映画の結末と同じで、そりゃあ、ラップも取り入れないとね。

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